勝新太郎の年表

Shintaro Katsu|アーティスト・作家|1931年生まれ

盲目の剣士「座頭市」などの当たり役で一時代を築いた昭和の大スター俳優。歌手・監督・プロデューサーとしても活動した。

勝新太郎の人生紹介

三味線の家に生まれて

1931年、東京・深川に生まれる。本名は奥村利夫。長唄・三味線の名門に育ち、2歳上の兄は後に俳優となる若山富三郎。幼い頃は三味線の稽古を「女のようで嫌だ」と嫌がったが、戦後に兄の活躍に刺激を受けて一念発起し、猛稽古を重ねる。寝食を忘れて向き合った結果、通常なら20年以上かかる技術をわずか4年ほどで修得し、父から「天才」と評されるほどの腕前となった。1954年、父や兄とのアメリカ巡業で撮影所を見学した際、無名時代のジェームズ・ディーンを目撃し、映画俳優になることを決意する。

「座頭市」との出会い

同年、23歳で大映京都撮影所に入社して映画デビューするが、同期の市川雷蔵との待遇差に長く屈辱を味わった。本人のパーソナリティと乖離した白塗りの美剣士役を演じ続けた不遇の時代を経て、1960年、自ら企画を持ち込んだ『不知火検校』で二枚目の殻を破る。翌1961年の『悪名』『釈迦』でさらに評価を高め、そして1962年の『座頭市物語』で、ついに自力でトップスターの座へと駆け上がった。盲目の剣士を演じ、「逆手斬り」をトレードマークとしたリアルな殺陣は絶大な人気を博し、『座頭市』はシリーズ化されて大映のドル箱となる。市川雷蔵とは「カツライス」と並び称され、斜陽化する大映の屋台骨を支えた。

不世出の「役者バカ」

庶民的な親しみやすさから「勝新」の愛称で親しまれ、天衣無縫で豪放磊落な人柄でも知られた。自らの本心に忠実な自由奔放な生き方は、時に世の常識から逸脱して物議を醸すこともあったが、少年のような好奇心で映画の構想を抱き続けた。歌手・脚本家・監督・プロデューサーとしても活動し、その破天荒な生涯を通じて「不世出の俳優」「公認の役者バカ」と評される。1997年に65歳で世を去ったのちも、日本映画史に残る名優として語り継がれている。

『座頭市』『悪名』といった人気シリーズで、1960年代の日本映画界に押し寄せたアウトロー時代劇の全盛を象徴する存在となった。美男子ヒーローが失墜していくなか、庶民的で人間味あふれる主人公を、リアルで泥臭い殺陣とともに演じ、観客を魅了した。三味線で培った驚異的な音感やリズム感は、殺陣の間合いや芝居のテンポにも生きていたといわれる。既成の枠にとらわれない演出・企画への情熱は晩年まで衰えず、2014年の映画人へのアンケートでも好きな日本映画男優の上位に選ばれるなど、没後も色あせない輝きを放ち続けている。

白塗りの美剣士を演じ続けた不遇の時代を自力ではね返し、自らの個性を前面に押し出す演技で道を切り拓いた歩みは、まさに下克上といえるものだった。『不知火検校』『悪名』『座頭市』と当たり役を重ねるにつれ、その存在は斜陽化する大映の屋台骨を支えるまでになる。豪快な逸話にも事欠かず、撮影や私生活での型破りな振る舞いは数々の伝説を生んだが、繊細で優しい一面や、作品に注ぐ少年のような情熱も多くの関係者が証言している。既成概念にとらわれない自由な生き方と底知れぬ表現力をもって、昭和という時代を体現した大スターである。

勝新太郎は何歳のとき何をした?

勝新太郎に関連する人物

同じ「アーティスト・作家」の人物

1931年生まれ(同い年)の人物

1931年生まれの人物一覧| 他の人物の年表を検索する →