藤圭子の年表

Keiko Fuji|アーティスト・作家|1951年生まれ

「新宿の女」「圭子の夢は夜ひらく」で一世を風靡した演歌歌手。ハスキーボイスで怨歌を歌った。宇多田ヒカルの母。

藤圭子の人生紹介

怨歌をハスキーボイスで歌った薄幸の歌姫

1951年、藤圭子は巡業中の一座の汽車の中で産気づいた母のもと、岩手県一関市の病院で生まれた。本名は宇多田純子。父も母も旅回りの浪曲師で、一家は北海道・東北を巡りながら細々と生計を立てていた。畳もなく裸電球一つが下がる部屋に暮らし、幼い兄弟が納豆や豆腐を売り歩いて日銭を稼ぐほどの困窮のなか、純子は育った。小学5年で初めて客前に立つと大反響を呼び、以後は両親の巡業に同行するようになる。

成績優秀ながら家計のために高校進学を断念した彼女は、雪祭りの歌謡大会で代役として歌った「函館の女」が作曲家・八洲秀章の目に留まり、中学卒業と同時に両親と上京した。錦糸町や浅草で母と流しをして生活するなかで作詞家・石坂まさをと出会う。「星の流れに」を歌う純子の、ドスの効いた退廃的な歌声に石坂は圧倒され、住み込みの弟子として鍛え上げた。

夢は夜ひらく

1969年、「新宿の女」でデビュー。以後、石坂とのタッグでヒットを連発する。ファーストアルバム「新宿の女」はオリコンで20週連続一位、セカンドアルバム「女のブルース」も17週連続一位を記録し、彼女のアルバム作品は通算42週連続首位という前人未踏の記録を打ち立てた。この記録は、今なお破られていない。

「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」「京都から博多まで」——夜の世界に生きる女の情感を、可憐な風貌とは裏腹のハスキーで暗く哀切な声で歌う姿は、一世を風靡した。演歌を歌いながらアイドル的な人気も集め、週刊誌の表紙を数多く飾り、テレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。作家の五木寛之は、そのデビューアルバムを聴いて「これは『演歌』でも『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた」と評している。1970年には日本歌謡大賞と日本レコード大賞大衆賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場した。

光へ、託した夢

1971年に前川清と結婚するも翌年離婚。1974年に喉のポリープ手術で声の特徴が失われたと悩み、1979年、「普通の女になりたい」と引退を表明してアメリカへ渡る。宇多田照實と再婚し、1983年、ニューヨークで長女を出産。徐々に視力を失いつつあった自身の思いを込め、「我が子から光が失われないように」と願って「光」と名づけた。

娘を世界に通用する歌手に育てるべく、資金が尽きれば日本で歌い、貯まればまた渡米することを繰り返した。だが1988年頃から精神を病み、家族との関係も次第に損なわれていく。光が1998年に宇多田ヒカルとしてデビューすると、入れ替わるように自らは歌を封印し、ニューヨークを拠点に気まぐれに世界を旅する生活を送った。2013年8月22日、都内で倒れているのが発見され、その生涯を閉じた。享年62。ジャーナリストの沢木耕太郎は、引退前に取材した彼女を「水晶のように硬質で透明な精神」と評した。娘に託した「光」は、母の願いのとおり世界へと羽ばたいていった。

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