Kirin Kiki|アーティスト・作家|1943年生まれ
独特の存在感で数々の名作を支え、晩年まで第一線で輝き続けた昭和・平成を代表する名女優。
樹木希林は1943年、東京府東京市神田区に生まれた。本名は内田啓子。父は薩摩琵琶奏者であった。大学受験を断念した後、1961年に文学座附属演劇研究所の一期生となり、「悠木千帆」の名で女優活動を始める。同期には岸田森や橋爪功らがいた。杉村春子の付け人を務めた時期を経て、1964年の森繁久彌主演ドラマ『七人の孫』でレギュラー出演し一躍人気を獲得した。
森繁久彌からはその場で芝居を作っていく面白さを、杉村春子からは書かれた台詞に多彩なニュアンスを込める芸を学んだと振り返っている。1964年から長く愛された『七人の孫』以来、テレビと映画の双方で名脇役として重宝され、是枝裕和作品の常連として国際的にもその名を知られた。晩年は「死ぬときぐらい好きにさせてよ」といった率直な言葉でも多くの共感を集めた。
演出家・久世光彦と組んだ1970年の『時間ですよ』で不動の人気を得て、1974年の『寺内貫太郎一家』では実年齢より年長の老け役を見事に演じ分けた。共演した郷ひろみとのデュエット「林檎殺人事件」もヒットしている。1977年には特に思い入れのなかったという芸名「悠木千帆」をテレビのオークションにかけて売却し、新たに「樹木希林」と改名したことでも話題を呼んだ。1979年のドラマ打ち上げでの暴露騒動や、1981年から吉永小百合主演『夢千代日記』への出演など、歯に衣着せぬ言動と確かな演技で強い印象を残した。1979年からのピップエレキバンや40年にわたるフジカラーのCMでも親しまれ、「それなりに映ります」などの流行語も生んだ。
俳優の岸田森との結婚・離婚を経て、1973年に内田裕也と再婚するが長く別居を続けた。2003年に網膜剥離で左目を失明し、2005年には乳がんを患うが、以降も精力的に活動を続けた。2008年に紫綬褒章を受章。2013年の日本アカデミー賞最優秀主演女優賞の受賞スピーチでは全身がんであることを告白した。是枝裕和監督の『歩いても 歩いても』『そして父になる』『海街diary』『万引き家族』や、遺作となった『日日是好日』など、晩年も数々の名作に出演。2018年9月15日、75歳で家族に看取られ死去し、その約半年後に夫の内田も世を去った。脚本と監督を何より重んじる姿勢を貫いた名優であった。
個人事務所「希林館」を構え、1970年代には岸部一徳を所属させた芸能事務所も興した。長岡輝子からは「耳がいい」ことが文学座合格の理由だと説かれたといい、相手の台詞をよく聞く芝居で知られた。遺した言葉をまとめた『一切なりゆき』などの書籍は死後もベストセラーとなり、その生き方と死生観は多くの人に影響を与え続けている。虚弱体質であったが、生前は自身の性格を「色々と悪い」と自虐的に語るなど、飾らない言葉とユーモアでも多くの人に愛された。