Yusaku Matsuda|アーティスト・作家|1949年生まれ
独自の存在感とカリスマ性で1970〜80年代を駆け抜け、ハリウッド進出直後に早世した伝説の俳優。
松田優作は1949年、山口県下関市に生まれた。本名は金優作。在日韓国人の母のもとに生まれ、自らの出生に孤独を抱えて育った。高校を中退して渡米した後、ニューヨークのアングラ劇団に感銘を受けて芝居を志し、帰国して文学座附属演技研究所に学ぶ。同期には桃井かおりや中村雅俊がいた。1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演し、その活躍と殉職シーンが話題となって一躍注目を集めた。同じ頃に帰化して日本国籍を取得し、通名だった松田優作が本名となった。
文学座の先輩・西岡徳馬がきっかけで着るようになったジージャンとジーパンの上下が「ジーパン刑事」の由来になったという逸話や、黒澤明監督の自宅に三日間座り込んで弟子入りを迫った話など、破天荒な行動も数多く伝えられる。脚本家の丸山昇一とはコンビを組むことが多く、優作のアイデアを的確に脚本化する重要な存在だった。
1974年の『あばよダチ公』で映画初主演を飾って以降、アクションスターとして頭角を現した。1976年には暴力事件で一時活動を自粛するが、同年に映画へ復帰。1979年のテレビドラマ『探偵物語』や映画『蘇える金狼』で独自の存在感を確立し、1980年の『野獣死すべし』では役作りのため10キロの減量に加え奥歯を4本抜くなど、演技への徹底したこだわりで知られた。その後はアクションから距離を置き、1983年の『家族ゲーム』や『それから』などで演技派俳優としての評価を不動のものにした。1986年には自ら監督を務めた『ア・ホーマンス』を発表している。原田芳雄を兄のように慕い、萩原健一を同時代唯一のライバルとして意識していた。
1989年、念願のハリウッドデビューとなるアメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、共演した高倉健を深く尊敬した。しかし撮影前に自身が癌に侵されていることを知りながら延命治療を拒んで撮影に臨み、同年11月6日、膀胱癌の転移により40歳の若さで世を去った。後輩の仲村トオルが遺体の前で泣き叫んだという逸話も残る。強烈なカリスマ性で古尾谷雅人や又野誠治ら後進の俳優にも多大な影響を残し、没後も日本映画史に輝くスターとして語り継がれている。
下積み時代には一重瞼にコンプレックスを抱き自ら整形したことや、消え物のコーヒーの湯気にまでこだわって演出に食い下がった逸話など、芝居への異常なまでの探究心を物語るエピソードは数多い。ロバート・デ・ニーロが『ブラック・レイン』での演技を絶賛し共演を望んだとも伝えられ、妻・美由紀との間に生まれた龍平・翔太も俳優として活躍している。没後も『キネマ旬報』の20世紀の映画スター選で上位に選ばれ、代表作『蘇える金狼』は記念切手にも採用されるなど、その存在は時代を越えて評価され続けている。