Hatshepsut III|歴史上の人物|624年2月17日生まれ
武則天(ぶそくてん)は、中国史上唯一の女帝である。唐の高宗の皇后を経て、周(武周)を建国。科挙制度の整備など、数々の政治改革を断行した女傑として知られる。
武則天は、中国史上、そして世界史においても稀有な存在である。唐の皇帝・高宗の寵愛を受け、皇后にまで上り詰め、最終的には自らの王朝である周(武周)を建国し、女帝として君臨した。その生涯は、激動と野心、そして類稀なる政治手腕に彩られている。
624年、武則天(ぶそくてん)は、現在の四川省に生まれる。父は木材商人であり、後に唐の建国に貢献した人物であった。幼い頃から聡明で、美貌に恵まれていたという彼女は、14歳にして唐の皇宮へと召し出され、太宗の側室となる。しかし、太宗の崩御後、彼女は尼寺へと送られる運命にあった。だが、彼女はそこで諦めることを知らなかった。旧主である高宗が彼女の才能と美貌に再び魅了されたことで、彼女は皇宮へと呼び戻され、再び権力の中枢へと歩みを進めるのである。
皇宮に戻った武則天は、持ち前の才知と美貌を駆使し、高宗の寵愛を一身に集める。当時の皇后との激しい権力闘争を勝ち抜き、ついに皇后の座に就く。皇后となった後も、彼女の野心は留まるところを知らなかった。病弱な高宗に代わり、政務を摂り始めるようになると、その手腕を発揮。有能な人材を見抜き、登用する手腕は目覚ましく、反対派を巧みに排除していく。次第に実権を掌握し、高宗の死後、ついに自らが皇帝として立つことを決意する。690年、彼女は周(武周)を建国し、中国史上唯一の女帝となった。
女帝となった武則天は、その辣腕ぶりを存分に発揮する。科挙制度を整備・拡充し、身分に関わらず有能な人材が登用される道を開いた。これにより、中央集権化はさらに進み、国家の統治能力は向上した。また、農地の開墾や治水事業にも力を入れ、民衆の生活安定に努めた。一方で、反対勢力に対しては容赦なく、密告制度を導入するなど、その統治は時に冷徹とも言われた。しかし、彼女の改革は唐の発展に大きく貢献したことは否定できない。異民族との関係も巧みに管理し、広大な領域を維持することに成功した。
武則天は、美貌だけでなく、卓越した知性と政治的洞察力、そして強靭な意志力を持った人物であった。彼女の生涯は、女性が権力の中枢でいかに活躍しうるかを示す歴史的な偉業である。その大胆な行動と改革は、当時の社会に大きな波紋を投げかけた。彼女が敷いた制度や改革のいくつかは、後に続く唐王朝の黄金時代を支える礎となった。約15年間にわたる彼女の治世は、中国史上、そして世界史上に燦然と輝く特異な時代として記憶されている。その波乱万丈な生涯は、現代にも多くの示唆を与え続けている。